他人から感謝されれば、「悪い気はしない」ことの方が多いかもしれない。
しかし、感謝されて、「それは本当に良かった」と思えることばかりでないこともまた、事実である。
例えば、相手は今「ありがたい」と思っているかもしれないが、自分では「本当は(長い目で見て)相手のためにはなっていない」と思うケース。
あるいは、純粋に「自己認識」や「主義」(自分の得意なことは何か、他者に提供したいことは何か、など)と合わないということもあるだろう。
相手から感謝され、自分も満足することに超したことはない。
しかし、相手が感謝の念を持つかどうかも、自分が満足するかどうかも、主観的なものである。
自分では「良いことをしたはずだ」と認識していても、相手からは感謝されないケースもある。
一方で、現実社会は主観的な感謝や主観的な満足だけで成り立っている訳ではない。
自分が満足していなくとも、あるいは相手が心から感謝していなくても、客観的(または一般的)に見て価値があるサービスが提供されたのであれば、金銭・名誉などの報酬が発生すべきである。
金銭とは必ずしも金品のことを指している訳ではない。食事をご馳走する、簡単なプレゼントを渡す、といったことも含んでいる。
他人から毎回「心から感謝される」ことは現実的には不可能である以上、社会(取引という行為に対する信頼感)の維持のためには、このようなgive and takeの慣習は必要不可欠であろう。
現代では人々の生活は市場というシステムに根ざしていて、もはや前提となっている。金銭と物・サービスは交換可能でなければならない。
この関係はある種の「割り切り」を価値の提供者にも、価値の受領者にも引き起こすことになる。
1つは「主観的認識の変更の要求」である。
「相手が一生懸命取り組んでくれたのだから、感謝しなければならない」というものや、「相手が喜こぶことこそが良い行いである」といったものだ。
社会はこのような「修正された感じ方」を道徳観念として刷り込もうとしている。
もう1つは、前述のような「報酬による妥協」である。
自分にとって満足出来ることではないが、相手は報酬を用意すると言っているので、その報酬に見合う範囲で(自分の意思を殺して)相手の希望に応えよう、という状況。
あるいは、自分が用意出来る報酬に見合った価値を受領出来れば良く、本当に感謝出来るような内容でなくとも構わない、という考え方である。
これらの「割り切り」は当たり前に行われていることであり、それほど問題にならないことの方が多いのだろう。
しかし、価値を提供する主体、あるいは価値の提供を受ける主体が個人ではなく、共同体である場合、話が難しくなる。
ある組織では、あるサービスを提供することで、相手は喜んでいて、自分たちもそれが良いことだと信じているとする。
この状況で、その組織の中の一人が、「相手は喜んでいるかもしれないが、本当に相手のためになることではない」と思ったとしよう。
その人は、報酬によって「割り切り」をすることが出来るが、自分たちの行動に満足している人たちと同等の報酬では、「割り切り」という精神的コストと釣り合わないと感じるだろう。
それでも、この一人と同じような状況になった場合、多くの人は「我慢」する選択をするかもしれない。
あるいは、(意識的、または無自覚に)組織に対する貢献レベルを少し下げることによって、バランスを取る人もいるだろう。
しかし、もしここで、組織が「相手が喜んでいることをしている自分は正しい」と考えるように、同調圧力をかけてきたらどうだろうか。カルト的思想教育である。
酷いケースでは、満足している自分たちには、高い報酬は必要ないという主張までセットになっているかもしれない。
価値観の多様性が当然のこととして受け入れられる世界であるためには、自分自身が意識的・無意識的に何について「割り切り」をしているのか正直になることと、そして組織が構成員はそれぞれ多かれ少なかれ「割り切り」をしているのだということを公に認めることが必要なのではないか。
「割り切り」は必要悪ではあるが、タブーであるべきではない。
それは裏返せば、「自分がどんなことで感謝されると嬉しいのか」について正直であるべきということである。