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価値のある世界・ない世界でのやり方

自分のやりたいこと・考えていることを実現するには、「したたかさ」が必要なのだという話をする人は少なくない。実社会だけではなく、書籍でも良く目にする内容である。

ここで言う「したたかさ」というのは、本来の「強か」ではなく、「狡猾」のような意味である。

正面から攻めると関係者の反感を買うことになることも多く、実現のためのコストや時間が増えてしまったり、頓挫してしまったりする原因になるという話だ。

主張は理解出来るし、それなりに正しくもあるのだろう。

 

一方で、「『したたかさ』が必要というアドバイス」は、的を外していると感じることが少なくない。

「したたか」というのは「やり方」に対する指摘である。もっと良いやり方がある、あるいは今のやり方は良くない、というのは、「実現したいと思っているが良いやり方を知らない」状況を前提としたアドバイスに他ならない。

つまり、さほど実現したいという思い入れがない人に対して「『したたかさ』が足りない」というのは完全にナンセンスである。この場合、方法を工夫するほどの価値を感じていないのだから、「やり方」の良し悪しについて指摘をしたところで役に立たない。

あるいは、その人に「『したたかさ』が足りない」のであれば、それは他の人が補うという方法も選択できる。プロセスに関係がない、「実現出来たことのメリット・デメリットを享受する人」の立場から見れば、「したたかな人の考えたつまらないアイデア」よりも「したたかさの足りない人の考えた素晴らしいアイデア」の方がずっと良いのではないか。

もし世界が素晴らしいアイデアを欲しているのであれば、良いアイデアを持っている人に対して他の人が「したたかさ」を補えるように世界は構成されているはずである。にもかかわらず「したたかさ」をアドバイスしなければならないならば、裏を返せば「さほど価値のないこと」をどうすれば実現出来るかという話をしているようなものである。

 

地球の、あるいは宇宙の歴史という観点では、その「したたか」な方法で実現したことなど測定不能なレベルのノイズにすぎない。もっとスケールを小さくして、人類の歴史という観点でも、その結果は変わらない。たとえ「近代以降」というタイムスパンにしたところで、ほとんどの「『したたかさ』によって実現した何か」は単なるノイズである。

世界には「こうであるべき」という解は存在しないと考えるならば、あるいは世界はなるようにしかならないと考えるならば、「『したたか』かどうか」など些末な事柄に思える。

 

「やり方」が積極的に語られる世界というのは、「何かに価値があると思い込むこと」を強要される世界でもある。

「世界の価値基準は変わった」とは言えても、「そもそも価値のあるものなど何も無いのだ」とは言えない。

世界の居心地の悪さを感じずにはいられない。

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