合理的な思考が出来ない人間には、苛立ちと失望を覚える。
合理的な思考を信奉する人間には、教養の欠如を感じる。
言葉を選ぶのは止めよう。
(元)戦略コンサルが書く本のような「論理的な思考」が出来ない人は、大抵の場合無能にしか見えない。
彼らは本質的でないポイントにリソースを浪費させ、効率的で効果的な意志決定を難しくし、「可能を不可能に」する。
例外は、その人が論理的思考能力以外の突出した才能、「センス」を持っている場合だ。
それは芸術的センスかもしれないし、運動神経かもしれないし、他人の心の機微を感じ取る能力かもしれない。
一方で、(元)戦略コンサルの書く本は「勉強になる」が、著者を賢いとは滅多に感じない。
現実に会う「似たような思考回路の人たち」も同じだ。
わざわざ彼らの本を読むくらいなのだから、彼らの思考能力は認めている。
彼らだって合理性至上主義者ばかりではなく、他者の感情も考えることが必要と説くケースは多い。
しかし、問題はそこではない。中身が浅薄なのだ。
例を挙げよう。彼らの本にはしばしば「より多くのビジネスパーソンが○○のような問題解決手法を学び、実践出来るようになれば、より多くの世の中の問題を解決出来るはずだ」と書いてある。
さて「問題」とは何なのか。「あるべき(or ありたい)姿と現状の差分」を問題と呼ぶそうだ。
では、「あるべき姿」とは何なのか。彼らは明確さを好むが、その主張はここで急に曖昧になる。
他の「あまりhappyではないこと」は何と呼べば良いのか。それらは解決されなくて良いのか。
彼らの定義では「あるべき(or ありたい)姿と現状の差分」以外のことは「問題」とは呼べないのだ。
これぐらいにしておこう。時間の無駄だ。もっと根源的な問いがある。
そもそも彼らの言う「問題解決」とは「問題を他の場所や人に移動」しただけではないのか。
「世界(or ビジネス)の変化のスピードが速くなった」から新たな問題が次々と生まれるというのは詭弁だ。
人類が文字を持つようになってから、あるいは近代と呼ばれる時代になってからどれだけの時間が過ぎただろうか。
結局問題なんて解決出来ていないのだ。だから「『問題解決』手法」はいつも必要とされている。
上記のような違和感を、既にまとめている人(三ツ野陽介氏)が居た。
上記で引用されている岡田斗司夫著の『あなたを天才にするスマートノート』で、「頭の良い人」に分類されるマイケル・サンデル氏が居る。
『これからの「正義」の話をしよう』の著者として有名な人だ。
マイケル・サンデル氏は素晴らしく賢い。読めば分かる。論理的であり、なおかつ教養がある。
しかしそういう「色々な観点が在って簡単には決められない」という姿勢は、コンサル的思考回路の持ち主からは「役立たず」の烙印を押されるだろう。
確かにマイケル・サンデル氏は「頭の良い人」だが、『あなたを天才にするスマートノート』の分類「方法」はナンセンスに思える。
「天才」は「全てを兼ね備えている」いう分類はそれだけで説得力に欠ける。「天才が《天賦の》才能」であるならば、「天才にする」というタイトルも意味不明だ。
少し前に流行した北野唯我著の『天才を殺す凡人』はタイトルにインパクトがあるし、分類方法として良い意味で常識的かつある程度斬新さもある。
内容が深いとは言えないが、何が世間でウケるのかを的確に捉えているのだろう。
話を元に戻そう。
盲目的にならないことと、行動力(現実世界への影響力を持つこと)は、本質的にトレードオフである。
それでも自分は、「盲目的でないこと」と、「現実世界に影響を与えること」に何らかの意義を見出している(フリをしている)。つまり盲目的だ。
愚かさを軽蔑しながらも、愚かである必要性は認めているのだ。この矛盾とどう向き合うべきか。


